老いる

義母を含み家族全員で、お正月に、初詣に出かけた。
その時は、晴れていて、比較的暖かく、真冬の割には寒さは厳しくないと感じられた。
が、義母は、車から降りるなり、コートの上にショールを頭からすっぽりと、ぐるぐる巻きにした。
こんなに暖かいのに、なんで、そこまでするのだろう?と、わたしは不思議に思い、
「極寒のシベリアのおばあさんじゃないんだし、そこまで、ぐるぐる巻きにしなくても、今日は暖かいですよ」
と一言、もらした。

すると、義母は、
「若い人には老いの苦しみが、絶対にわからない」と、しんみり言った。

なんだか、う、と胸にこたえた。

そう言われても、やはり、わからないものは、わからない。
こんなに暖かい日に、なぜ、あんなにぐるぐる巻きにするのか。寒くないのに。風もないのに。

体感温度が違うのかも知れない。
体温調節機能が衰えているのか。


以前、職場の人に言われたことを思い出した。
その人は、幼いお子さんを亡くされた経験がある。
「子供を失った悲しみは、失った者にしかわからない」と、搾り出すように言われた。
わたしは、無神経な発言をした覚えはない。
なにかの拍子で、そんな感情が湧き出てきたのだろう。

しかし、その時は、自分にはなにも思い当たることがないのに、そういう風に、まるで責められるかのように言われると、
非難されているような気になって、暗く沈んでしまった。
身に覚えはないのだが、強制的に罪悪感のようなものを呼び起こされた。

それに似ている。
理解できないというものは、そういうことだ。
じつに、残酷なものである。

子供が、無垢な目で、誰か他人の、大きく傷のある顔や身体の一部を指差し、
「これ、なに?なぜ、こんなにヘンなの?」と、訊ねるのと似たようなものか。
経験や脳が未熟で、相手を思いやることができない。決して悪意があるわけではない。

自分は、どうもない、でも、悲劇の人に、「あんたなんかに、わかるまい」と言われると、
とても複雑な気持ちになる。
どうも何事もないこと、安泰なことが、申し訳ない様な、そんな気になる。


老いに関しては、いずれ、わたしも同じことを娘や嫁に言っていることだろう。
その時、はじめて、義母の、老いの辛さが身にしみて、しみじみわかることだろう。

老いだけでなく、病気や、人生の不幸を背負っている人の苦しみは、
アタマの中で理解しようとしても、なかなか本当に、自分がその立場に実際になってみないとわからないだろう。

娘たちに、ぼろくそ言われたとしても、いずれ、彼女たちも年をとり、老いがやってきて、はじめてわかることに違いない。
(福祉介護に従事している人は、仕事上、老いの現実を知っているだろうけれど。
それは、老いの苦しみをわかる、理解することとはまた別だと感じる)
不幸に関しては、不幸の経験がない人が、へんに同情したりするのは、同情される側は、神経に障るかも知れない。
同じ体験、経験をした人たちが同じ悩み、痛みをシェアするほうが自然治癒につながるかも知れない。


しかしながら、老いは、不幸か?
だれもが必ず、やってくること。
それが嫌なら、若くして早死にするしかない。

「年をとって老いて、なにもいいことがない」と、数年前、実母に、ぼやかれたことがある。
「そんなことはないわよ。年をとってもいいことがあるよ」
と言ったら、母に、「じゃあ何がある?」と、聞き返され、返事に困った。

赦す、とか、あきらめる、とか、達観する、とか、弱さを認める、とか、
完璧を求めること、現状を維持することに対して、
手綱を締める、ブレーキをかける、そういう精神力で、マイナス点をプラスに押し上げるのか。
(認知症は、病気なので、また違うが)

どんどん現状(肉体・精神)が悪化していくなかで、でも、生きていかなければいけない。
医療の進歩もある。ちょっとや、そっとじゃ、死なない。
これは、やはり、経験したものでないとわからないだろう。